MENU

創立の目的と沿革/法人の沿革

「夜もひるのように輝く」の碑

「夜もひるのように輝く」の碑

1930(昭5)年5月、貧しい父子が若きキリスト者たちを訪れました。青年の顔は青白く、息も絶え絶えでした。この子は結核を病んで住居を転々とし、「天地の間に五尺の身体の置き所さえもない……」と、父親は涙ながらに語りました。キリスト者たちはこの青年を迎え入れ、病室を建て、看病にあたったのです。この愛の業が今日の聖隷グループの端緒となりました。

当時の結核は、家庭を破壊し、隣人を遠ざけ、生命を奪っていく恐ろしい伝染病でした。このため、彼らは幾度となく土地を追われました。1931(昭6)年、ようやく入野村にバラックの病舎を建てることができ、ベテルホーム(主の家)と名付けました。しかし、療養所として形を整えてきた頃、道に杭を打つなど周辺住民の反対運動が起こりました。

彼らは反対者に対しては心を尽くして理解を求め、病者たちには持てるもの一切を投じて善き友になろうと努めました。粗末な病舎ながら、そこには満足して療養する患者たちのやすらかな顔がありました。患者たちの残りを食し、着のみ着のままで看護に専心するキリスト者たちの姿がありました。

彼らの働きは、心ある人たちに大きな感動を与えました。理解者が加わり、三方原に広大な県有林の払い下げを得ることができたのです。1937(昭12)年3月、彼らはこの荒野を安住の地と定め、聖隷保養農園と改称しました。しかし、またも反対運動が起き、その激しさは施設襲撃の直前にまで及びました。加えて経営の困難は日毎に進み、百人近い患者と職員を抱え、食べ物の調達さえできなくなったのです。1939(昭14)年12月24日、園長はついに施設の閉鎖を決意しました。翌25日のクリスマスの日、思いもよらぬことが起こりました。天皇陛下より御下賜金を拝受し、潰えんとした事業は劇的に救われたのです。

そして終戦。聖隷保養農園は、戦災者や引揚者にも愛の手を差し伸べていったのです。日本の前途には厳しさが横たわり、人々は生きる力を失っていました。「日本の復興は青年の精神の復興にあり」—– 聖隷の教育事業が始まったのです。

1930年 結核患者収容開始
1936年 浜松市三方原町の県有地7ヘクタール(21,000坪)払い下げになる
1939年 迫害激しくおこり経営困難極まる
12月25日に天皇陛下より特別御下賜金を受ける
1949年 各種学校「遠州基督学園」設立
1952年 「聖隷准看護婦養成所」開設
1966年 「学校法人聖隷学園」設立
「聖隷学園高等学校衛生看護科」開学
1969年 「聖隷学園浜松衛生短期大学」開学
1980年 聖隷学園浜松衛生短期大学に「専攻科助産学特別専攻」開設
1988年 「聖隷介護福祉専門学校」開学
1992年 「聖隷クリストファー看護大学(看護学部看護学科)」開学
1998年 「聖隷クリストファー看護大学大学院看護学研究科看護学専攻(修士課程)」開設
2001年 聖隷学園高等学校を「聖隷クリストファー高等学校」に名称変更
2002年 大学に「社会福祉学部」を増設し、「聖隷クリストファー大学」に名称変更
短期大学を「聖隷クリストファー大学看護短期大学部」に名称変更
2003年 聖隷クリストファー高等学校が現在地に全面移転
2004年 大学に「リハビリテーション学部」を、大学院に「社会福祉学研究科社会福祉学専攻(修士課程)」を開設
看護短期大学部看護学科を募集停止し、看護学部の入学定員を増員
2006年 大学院に「リハビリテーション科学研究科(修士課程)」を、高等学校に「英数科」を開設
2007年 大学に「助産学専攻科」を開設
2008年 大学院に「保健科学研究科(博士後期課程)」を、大学社会福祉学部に「こども教育福祉学科」を開設
2009年 「聖隷クリストファー中学校」を開校
大学看護学部に「養護教諭免許課程(一種)」を設置
2011年 「聖隷クリストファー大学附属クリストファーこども園」を開園
大学院「看護学研究科」、「リハビリテーション科学研究科」、「社会福祉学研究科」を
各博士前期課程・後期課程に改編
2016年 「聖隷クリストファー大学介護福祉専門学校​」を開校
2020年 「聖隷クリストファー小学校」を開校
2022年 中学校が「中高一貫コース」と「グローバルスクールコース」の2コース制を導入
2023年 大学に「国際教育学部」を開設