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福祉・教育エッセイコンテスト結果発表


この度聖隷クリストファー大学では、福祉・介護・教育に関わる方々を応援するために、「福祉・教育エッセイコンテスト」を実施しました。

ご応募いただいた作品の中から、各部門の最優秀賞、優秀賞が選出されました。

【高校生部門】
最優秀賞
『救われた言葉』(亀山 紗季さん)
 
優秀賞
『本当のコミュニケーションとは』(村田 来望さん)
『祖父と私』(原田 真衣さん)

【一般部門】
最優秀賞
『共生』(細江 隆一さん)

優秀賞
『多文化共生社会の実現』(秋谷 進さん)
『私の願い』(倉井 一豊さん)

また、優れた作品は特別賞として選出されました。
各受賞者の方には、賞品の発送をもって受賞のご連絡と代えさせていただきます。(賞品の発送は11月中旬を予定しております)

今回は高校生部門211作品、一般部門12作品の応募をいただきました。ご応募いただいた皆様、誠にありがとうございました。
今後も本学では、このようなコンテスト等を通じ、福祉・介護・教育の持つ温かさを伝えていきたいと考えています。


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エッセイ最優秀賞作品

■高校生部門『救われた言葉』
 私は、ずっと自分は普通だと思っていました。そんな自分の常識が崩れるのは一瞬でした。私は、小学生のころに自閉症スペクトラム障害と診断されました。私と一緒に姉と兄もアスペルガー症候群と診断されました。それを聞いた私は、自分は普通じゃなかったんだと悲しくなりました。中学に入って発達障害などで輝き学級に入っている子が可哀想と同情されているのを見てしまいました。私は普通学級に入れたけど私も同じように囁かれているのではないかと怖かったです。人は自分と少し違うと恐れたり同情したりします。それが悪いこととは思わないです。でも、それで避けたり同情のまなざしを向けられるのはやっぱり悲しいし寂しいと思います。私は、中学で相談員の先生が週一で私の話を聞いてくれたり嫌なことがあると決まって一緒にゲームをしてくれました。先生のおかげで私は一回も不登校にならずにすみました。そんな先生が落ち込んだ私にふと言ってくれた言葉が今でも私を支えてくれています。「紗季さんは紗季さんでしょう。それは絶対に変わらないし紗季さんには紗季さんのいいところがある。一つの事に集中しすぎて周りが見えなくなってしまうのも場面にもよるでしょ。悪いことばっかじゃないわよ。」そう言って元気づけてくれました。その言葉で私は涙が出ました。心にあったつっかえが取れたような気がしました。私は今年から高校生になりました。夢だった福祉科に入り、七月の実習では私は就労支援施設にいきました。そこには、知的障害や精神障害などで会社で働けない人たちが集まって仕事をしていました。休憩時間はみんなとお話したりゲームをしたりしました。話してみるとみんな活発でとても楽しそうでした。障害があればそれだけで大変で苦労もたくさんすると思います。でも、それはその人の特徴であって同情されるものではありません。だから自分と少し違うからと言って恐れないでほしいです。私がそうだったように恐れず話しかけてほしいです。一人の人間だから。

■一般部門『共生』
 いまは亡くなった知人が一時車椅子で生活していた。時折それを押しながら散歩を手伝ったのだが、そのとき気になったのは車椅子の視線の低さだった。
 例えば押しながら「ほらっ、あそこにきれいなチューリップが咲いてる」と言っても、知人は「えっ、どこ、どこにある」と聞いてくる。おかしい、私には見えているはずなのにと思って、近くまで車椅子を押していくことが何度かあった。当初は「知人の目が悪いのではないか」と思っていたが、何度か同じことを繰り返すうちに、車椅子に座っていると見えないのだ、と気が付いた。
 気が付いたきっかけは、知人の視線と高さが違うのではないか、と思ったことだった。実際、車椅子に座らせてもらうと、なるほど立っている私が見ていた花が座ったとたん、消えてしまう。これでは見えないな、と実感した。以来、知人の見えるところで声をかけるようにした。後年、これが父の車椅子を押すときにも役立った。
 私たち健常者は自分の生活が当たり前だと思っている。だが、そうではないからこそ、障害を持った人たちは困るのである。私たちが「障害を持った人たちの立場に立つ」と言うときは、視線にしても、気持ちにしても、障害を持った人たちと同じ感覚で接しないと、誤解を招いてしまうことになる。
 もう一つ例を挙げる。私は十年ほど前に右手の中指を切断する事故にあった。第一関節から切断し、それを病院で繋げたのだった。事故に遭った当時はそのショックでパニックになり、冷静に物事が判断できなかった。「どうしてオレばかり」とか「神様は不公平だ」とか、怒りと不満ばかり抱える毎日だった。
 ところが、何日か経ち、冷静に物事が考えられるようになってくると、いかに中指が大事な役割をしているかを悟った。
 例えばパソコンを打つとき、それまでは全く意識していないで打っていたのだが、中指が動かないと大切なキーが打てないことを知った。どうやってもいままでの方法では打てないので、打ち方を変えるしかなかった。
 また、中指だけでなく、右手全体を包帯でぐるぐる巻いていたから、右手自体が使えない状況だったので、運転ができなかった。顔を洗ったり、トイレの後でお尻を拭いたりするのにも難儀した。普段は右手は使えるものという前提で行動していただけに、いざ使えなくなったとき、どうしたらいいのか、たいへん困った。
 この体験から学んだのは、私が当たり前だと思っていることは、実は大事なことなのだという事実である。自分が健常者であること自体がこれは貴重なことであり、それに感謝して生きることが大切なのだとも思った。
 同時に障害を持った人にどう接したらいいのかも考えさせられた。私は右手を使えないとき、当時の恋人に頼るしかなかった。一人ではとても生活できないので、彼女に一つ一つやってもらうしかなかったのである。障害を持つ人も同じで、自分でできることと、できないことがある。社会的自立を考えたとき、できることはできる範囲でするのが大事だが、できないことは周囲が助けることが大事である。私はそれを自分の事故から学んだわけである。
思うに、健常者と障害を持った人との間に介在する意識の違いが、バリアの一つではないかと思う。ともすれば、健常者には当たり前でやっている行為が、障害を持つ人にできないのが不思議だし、理解できない。障害を持つ人にとって健常者は、自分を理解してくれない人でしかない。そんなすれ違いが軋轢を生み、小さなバリアから大きなバリアに拡大していくことがあるからである。
 事故に遭い、通常できることができなくなったとき、私は恋人に辛く当たってしまうことがあった。「どうしてオレの気持ちをわかってくれないんだ」と彼女を責め、泣かせてしまったこともある。だが、いま思えばそれは彼女に対する八つ当たりでしかなかった。健常者である彼女に、右手を使えない私の気持ちを理解する方が難しかったはずだから。当時の私はそれに気づけなかったのだ。
 いま車椅子を押す機会があるとき、私は必ずしゃがんで視線を確認する。「ああ、この人はこの高さでものを見ているんだな」と思えば、それに合わせて言葉を交わす。「いい天気ですね」なら問題はないが、「向こうの花はきれいです」は問題がある。こういう場合は、近くまで寄ってから「きれいな花ですね」とやればいい。
 東京五輪が開催され、オリンピックだけでなく、パラリンピックにも注目が集まった。今回はパラリンピックの最中も、メダル獲得のニュースがメールで届いた。新聞でも、パラリンピックの選手たちの生い立ちを大きく取り上げて紹介していた。こんなことは、10年前の社会だったらありえない出来事である。それだけ障害を持った人たちへの関心が高まったのだと思う。
 だからといって、社会が障害を持った方に優しいとは限らない。階段は車椅子には難関だし、視覚障害のある人が安心して歩行できる国とはとても言えない。障害者専用のマークがある駐車場には平気で止めてしまう健常者がいるし、障害を持った方が働ける職場も限られている。障害を持った方に広く、手厚く門戸を開くことが、日本社会には求められているはずなのに。
 今回の東京五輪で高まった、障害を持った方への関心や機運を、点ではなく線で結び、次世代へ繋げていくことが、もっとも重要であると考えている。