聖隷の歴史

上:クリスマスの日に天皇陛下より「特別御下賜金(5,000円)」を受ける。前列左から3人目 長谷川保、母 キマ、後列右から2人目 山形春人、3人目 長谷川甚一。
下:恩賜記念館

1938(昭和13年)

1935年(昭和10年)ごろより、国の結核予防対策の大きな転換を受けて、「社会事業」の認可を受ける。しかし、結核への脅威は大きく(死亡原因1位、死亡総数の40%)、迫害は一層激化。経営は最悪の事態を迎える。

1939(昭和14年)

12月25日  クリスマスの日に天皇陛下より「特別御下賜金(5,000円)」を受ける。
1938年(昭和13年)に厚生省や静岡県、三井報恩会等各種団体よりの受けた補助金・寄付金の総額は2,500円であった。当時、白米2等10kg2円94銭、たばこ(ゴールデンバット)9銭、入浴料6銭の時代。
経営危機を脱出するとともに、長年にわたる迫害に一応の終止符が打たれる。この年、皇后から内帑金を基金に「財団法人結核予防会」が設立される。

1941(昭和16年)

1月  聖恩に応えるという目的のもとに「聖隷保養農園賛助会」が設立され、10万円を目標に募金活動開始。
10月  御下賜金を基金に「恩賜記念館」を新築落成。
初めて本格的な病棟兼診療所が誕生する。

1942(昭和17年)

8月  「財団法人聖隷保養農園」の設立が認可される。理事長に医師の渡邊兼四郎、常務理事に長谷川保、そして理事として川上嘉市など各界の著名人を迎える。

1944(昭和19年)

賀川豊彦より病棟献納資金としてクリスマス献金を受領。静岡県衛生課より戦災結核患者の救済特別施設として委嘱を受け大奮闘。結核患者だけでなく、戦災者の救済に懸命に取り組み、当初激しい迫害運動をくり返していた地域住民も唯一の医療機関として頼りにされるようになる。
上:撮影者 藤井尋造(木戸町藤井歯科)
下:弁天島同胞寮

1945(昭和20年)

4月〜7月  度々大空襲を受け、浜松は焦土と化す。戦災負傷者、被災者が多数身を寄せる。
8月15日  終戦
長谷川保 祖国復興構想をまとめ、聖隷保養農園は修道院の如く、無給料で働くことを提議し、実行に移す。

1946(昭和21年)

4月  長谷川保、戦後初の第22回総選挙で衆議院議員に初当選。生活保護法制定に全力を挙げて取り組む。
12月  生活保護法成立(旧法)を受けて、海外からの引き揚げ母子家庭を救うため、県に働きかけて「弁天島同胞寮」を開設。収容人員は最高時82世帯、350人の母子が暮らし、厚生省より『日本一の母子寮』の評価を得る。
上:「遠州基督学園」設立
下:遠州基督学園

1949(昭和24年)

各種学校「遠州基督学園」設立。時代を支える青年たちの教育に取り組む。今日の教育事業の出発点となった。
当時日本一の肺外科の権威 東大教授都筑正男博士による外科治療を導入。ペニシリン、ストレプトマイシンなどの化学療法も併用し、画期的医療が始まる。