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創業期


2. 創業期
1934(昭和9)年~1949(昭和24)年
べテルホームから聖隷保養農園へ
満州事変から日中戦争へと、世相は暗黒の時代。当時、死に至る病といわれた結核患者、特に貧窮の患者を信仰による精神生活と自然治療法による肉体の回復のために献身的に奉仕しました。
しかし、度重なる迫害に閉鎖を考えたこともありました。聖隷にとって最大の苦難の時代といえます。

迫害のはじまりと主の家 「べテルホーム」の完成

1931(昭和6)年
6月:愛耕園の地主より立ち退きを迫られ移転先を決めるも、病室の完成前に猛烈な反対運動が起き、再び立ち退きへ。
入野村大鱸(おおすずき)にようやく病棟が完成し、患者たちの受け入れ開始。「べテルホーム(主の家)」と称する。
結核患者たちが次々とベテルホームを訪れ救済を懇願。収容、看護を続けるも経済面では厳しい状況へ。
8月:ベテルホームの診療奉仕を続けてこられた渡邉兼四郎医師から新築病棟と既設病棟の増設の寄贈を受ける。
渡邊医師と同じく、園田繁草医師(咽喉耳鼻結核)や、梅林かなへ医師(婦人科疾患)も無料往診で側面から支援。
1933(昭和8)年
:受入れから3年後、桑原青年33歳で信仰と療養の生涯を終える。
聖隷が「自分のように、あなたの隣人を愛しなさい」という聖書の教えを実践し、無償で重症の結核患者を受け入れる契機となる。

べテルホーム

看護師長・内山たつ

療養中の患者さん

診察する渡邊兼四郎医師

一坪献金運動と「聖隷保養農園」

1934(昭和9)年
7月:賀川豊彦主宰の「イエスの友会」全国大会において、長谷川保が訴えたベテルホームの窮状により、新しい土地獲得のための「一坪献金運動」が決議され、全国より2,650円(当時)の献金が集まる。
1936(昭和11)年
一坪献金運動の献金を資金に、浜名郡三方原村に2万1000坪(約7ha)の県有林の払い下げを受ける。
同じく病棟建設資金として、ベテルホームの活動に心動かされた「平山中尉記念館(病棟)」の寄贈や、入院患者の兄姉妹、信徒の家族たちより善意の寄付を数多く受ける。
6月:長谷川保「天皇陛下も人間です」との発言により不敬罪で逮捕される。
長谷川保は憲兵隊に「上申書」を提出。
1937(昭和12)年
4月:ベテルホームの三方原への移転に伴い「聖隷保養農園」と改称。同時に鈴木利三郎たちにより3ヘクタールの農場の開墾に着手。
聖隷社クリーニング店で働いた鈴木唯男がベテルホームに移る。
8月:長谷川保、臨時応召により、北支戦線に出征。翌年4月病気により帰還する。

「イエスの友会」全国大会

平山中尉記念館(病棟)にて
左から2人目 内山徳治、4人目平山の母、5人目平山清、
右から2人目 長谷川保

聖隷保養農園
後列左より内山徳治、大野篁二、長谷川保、雨宮猪藤、袴田新太郎。前列左より2人目 鳥居恵一、4人目鈴木利三郎、5人目松本美實牧師

再び迫害の火の手が上がる

1937(昭和12)年
5月:婦人雑誌「主婦之友」6月号にベテルホームと農園の詳細が掲載され、「聖隷保養農園」が結核患者の療養施設とわかり、周辺住民の反対運動が湧き起こる。
一方、記事により全国から重症の結核患者が殺到する。

主婦の友表紙・記事

迫害運動が激化し経営がひっ迫する中、天皇陛下よりクリスマス・プレゼント

1938(昭和13)年
1935年ごろより、国の結核予防対策の大きな転換を受けて、「社会事業」の認可を受けたが、結核の脅威は大きく(死亡原因1位、死亡総数の40%)、迫害は一層激化。経営は最悪の事態を迎える。
1939(昭和14)年
保養農園を閉鎖し神にお返しすることを決意した翌日の12月25日 クリスマスの日に天皇陛下より「特別御下賜金5,000円(当時)」を受ける。
1938年に厚生省や静岡県、三井報恩会等各種団体より受けた補助金・寄付金の総額は2,500円であった。当時、白米2等10kg2円94銭、たばこ(ゴールデンバット)9銭、入浴料6銭の時代。
御下賜金により経営危機を脱出するとともに、長年にわたる迫害に一応の終止符が打たれる。この年、日本では皇后からの内帑金を基金に「財団法人結核予防会」が設立される。

特別御下賜金伝達書とのし袋

前列左から3人目 長谷川保、母 キヌ、妻 八重子
後列右から2人目 山形春人、3人目 長谷川甚一

御下賜金による保養園の財団法人化と付属病院の設立

1941(昭和16)年
1月:聖恩に応えるという目的のもとに「聖隷保養農園賛助会」が設立され、10万円を目標に募金活動開始。
10月:御下賜金を基金に「恩賜記念館」を新築落成、初めて本格的な病棟兼診療所が誕生する。
1942(昭和17)年
8月:「財団法人聖隷保養農園」の設立が認可される。理事長に医師の渡邊兼四郎、常務理事に長谷川保、そして理事として川上嘉市など各界の著名人を迎える。
1944(昭和19)年
賀川豊彦より病棟献納資金としてクリスマス献金を受領。静岡県衛生課より戦災結核患者の救済特別施設として委嘱を受け大奮闘。結核患者だけでなく、戦災者の救済に懸命に取り組み、当初激しい迫害運動をくり返していた地域住民からも唯一の医療機関として頼りにされるようになる。

恩賜記念館

被災者支援に全力を挙げて取り組む中で戦後の新しい道を模索する

1945(昭和20)年
4月~7月:度々大空襲を受け、浜松は焦土と化す。戦災負傷者、被災者が多数保養農園へ身を寄せる。
8月15日:終戦
長谷川保 祖国復興構想をまとめ、聖隷保養農園は修道院の如く、無給料で働くことを提議し、実行に移す。

大空襲後の浜松
撮影者 藤井尋造(木戸町藤井歯科)

1946(昭和21)年
4月:長谷川保、戦後初の第22回総選挙で衆議院議員に初当選。生活保護法制定に全力を挙げて取り組む。
12月:生活保護法(旧法)成立を受けて、海外からの引き揚げ母子家庭を救うため、県に働きかけて「弁天島同胞寮」を開設。収容人員は最大時82世帯、350人の母子が暮らし、厚生省より『日本一の母子寮』との評価を得る。
1949(昭和24)年
各種学校「遠州基督学園」設立。時代を支える青年たちの教育に取り組む。聖隷の教育事業の出発点となる。
当時日本一の肺外科の権威 東大教授都筑正男博士による外科治療を導入。ペニシリン、ストレプトマイシンなどによる化学療法も併用し、画期的医療が始まる。

弁天島同胞寮

遠州基督学園

外科手術風景