聖隷の語源とキリストの教え
ヨハネによる福音書13章には、最後の晩餐のとき、主イエスは「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて弟子たちの足を洗い…」とあります。当時、他人の足を洗う仕事は奴隷の役割でした。キリストは弟子たちに行動をもって最後の教えを示しました。これが聖なる神様の奴隷を意味する『聖隷』の語源となりました。外側の二重円は、このたらいを表しています。内側の三つの円は、聖隷集団の使命である医療(赤)、教育(青)、福祉(緑)を象徴しています。中央の十字架はキリスト教を示し、すべての事業がキリスト教会の中から始まったことを示しています。この図案は、故アルバート・アットウェル博士(アメリカ人1978〜81年聖隷学園に奉職)が、1980年に聖隷のシンボルとして考案したものです。

「弟子たちの足を洗うイエス」
さて、過越祭の前のことである。イエスは、……食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。……さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「……あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
(ヨハネによる福音書第13章1節〜15節)
解説
ペトロは自分が汚れた者であることを思い、足を差し出すことをおそれ、ためらった。しかしイエスはペトロの足を洗われる。聖隷の名はこの個所に由来する。1926(大正15)年4月、イースターの午後に、長谷川保、大野篁二、山形春人、鳥居恵一、安川八重子(後の長谷川八重子)ら10人ほどの青年キリスト者たちが、社会福祉事業を行うことを目的として聖隷社を創立した。彼らはイエス・キリストが奴隷の形をとって、弟子たちの足を洗われる姿を、キリスト者の理想の生き方と考えた。自分たちもキリストに倣い、聖なる神の奴隷となって神と世の人々とに仕える生き方をしようと誓い合った。1930年以降、聖隷社の仕事は結核患者に対するケアに移って行く。聖隷集団の徽章もこの個所を象徴する。外側の二重の円はイエス・キリストが用いられた「たらい」を表す。

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愛のない罪深い世界に、神の愛が注がれた。使徒ヨハネは、十字架の上で命を捨て、復活された主イエスの姿に聖なる神の愛を知り、その愛を知ったからこそ「私たちもまた兄弟たちのために命を捨てるべきです」と述べている。自分の罪のために、主イエスが身代わりになって命を捨ててくださったと信じることを贖罪信仰と言う。この贖罪信仰こそ、キリスト教の愛の精神の原動力である。 聖隷の創業者、長谷川保の信仰は、正に贖罪信仰であった。彼はこの聖句を愛し、日々祈りの内に、十字架で命を捨てられた主イエスの姿を見つめ続けていた。それゆえに、「自分に注がれた神の愛を、隣人にも注ぐべし。」という情熱は、生涯途切れることなく、医療、福祉、教育の分野を中心に、多くの事業の実りを結ばせることになったのである。

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「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
(ヨハネの手紙Ⅰ 第3章16節)
解説

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」
イエスはこの12人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も2枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」
(マタイによる福音書第10章5節〜10節)
解説
神と人とに仕える者は、生活の資を獲得するために働くのではない。また生活の資をあらかじめ確保しておいて仕事を始めるのでもない。しかし、神と人とに仕える者に、生活の資は必ず用意される。「神はわが牧者、われ乏しきことあらじ。」結核患者のケアを始めて以後、1953年までの22年間、聖隷の従業員たちは無給料で働いた。それだけではない。しばしば食べるものがなくて、患者が食べ残したものを煮返して、おじやにして食べた。着る物も履く物も、亡くなった患者が残していったものを用いた。それでも全員、つぶやきも悲愴感もなく、日夜、讃美歌を歌いながら患者のケアに当った。「神はわが牧者、われ乏しきことあらじ」(詩編23篇)とある通りであった。

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隣人愛は二つの側面を持つ。最も小さい者を隣人とする愛、最も小さい者の隣人としての愛、の二つである。世に厭われ、捨てられ、無視された人々に仕え、愛の業を行う者は、実際は神に仕え、神を愛する者である。神への愛と隣人愛とは決して切り離すことはできない。世に厭われ、捨てられ、無視された人々に仕える者は、世に憎まれ、迫害される。長谷川保たちは結核患者を愛し、彼らに仕えたために迫害を受けた。長谷川保は筆舌に尽くし難い困難を負ったが、患者や従業員たちはそれをほとんど知らなかった。聖隷の患者と従業員たちの間にはいつも明るい健康な笑いがあった。死の瞬間にも安心とほほえみとがあった。

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「最も小さい者の一人に」
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
(マタイによる福音書第25章34節〜40節)
解説

「最も大事な掟」
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出で、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにはない。」
(マルコによる福音書第12章28節〜31節)
解説
ユダヤ教には、十戒の10カ条も含めて613カ条の掟や戒めがある。その中でどれが最も重要かという議論が盛んであった。イエスは一つだけでなく2カ条を最も重要なものとして選ばれた。十戒は二枚の板に書かれていた。第一の板には神と人間との関係についての掟が、そして第二の板には人間と人間との関係についての掟が書かれていた。イエスが最も重要と見なされる二つの掟は十戒の二枚の板をそれぞれ代表するものである。神への信頼と愛がそのまま隣人への愛というのではない。もちろん隣人への愛がそのまま神への愛だというのでもない。しかし神への愛と隣人への愛とを切り離すことはできない。神への愛を抜きにして隣人への愛はなく、隣人への愛を抜きにして神への愛はない。この精神が聖隷の事業の根底に流れる。

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